むかしむかし・・・・ 004

確か、最初の1〜2回は、キーボードはなしで、スローバラードのイントロは、私がギターで弾いていた記憶・・・。

どうしても、キーボードが・・・ということで、ツアーの最後辺り、熊本では、佐山雅弘さんだったが、その前は、やはり私の人間関係で、”生活向上委員会”の原田さんに頼んだ事があった。

しかし、自分の個性とスタイルを必ず反映するという彼の生き方・スタイルは、僕らの期待を大きく裏切る事となり、一回で終わり、当時国立のミュージシャン仲間から”こまわり君”と呼ばれていた佐山くんにお願いする事になった。

上條恒彦さんの専属バンドでピアノを弾いていた佐山氏は、見事狙い通りのバッキングを展開して、スタッフ一同をホッと
させてくれた。
 その後の、彼の活躍については、皆さんご存知の事と思う。ポンタ・ボックスをはじめとして、今や”大売れっ子”である。


そういえば、ツアーの中ごろで、渋谷の”ジャンジャン”でのライブが入ったり、秋ということで、大学祭もあった。
覚えているのは、生田の専修大学御茶ノ水明治大学

その頃、キーボードが無い時に、ハモンドのB−3を入れることがあった。
私が弾いたり、清志が弾いたりだった。
確か、明治大学の時だった。その時の映像を”YouTube”で見ることが出来る。
78”R.C.Sucesion”で当たる。(単純な質問、サクセションの英語のスペルって・・・・これでよかったのでしょうか???失礼!!)

そして、秋といえば、「印税」の時期であります。
印税で想い出したのが、”レス・ポール・ゴールドトップ54モデル”であります。
渋谷橋のスタジオでりはの時、ある日清志が、ギブソンのどう見てもレスポールのものであるケースを得意満面の顔で現れた。


一同、「お〜〜ぉ!?!」と声をかけ、中を開けるとゴールドトップが入っていた。
私は、78年のストラト・キャスターだったのだが、”P-90”の音に参ってしまった。
低音の弱いストラトとは、明らかに一線を隔する音。

当時の新譜の「わかってもらえるさ」の間奏で、清志と私のツイン・ソロがあった。
ソロは、決してお世辞にも、うまいとは言いがたい清志だが、それまで何年も3ピースのフォークバンドスタイルでリズムを出して来た、彼のキザミは圧巻である。


後年、つい最近だが、”57モデル”を買った。
こちらは、いわゆる完成形である。

しかし、”P-90”については、いまだに未練が残る。
ただ、ブリッジが一体型の”54モデル”はチュウーニングに不安が残った。
その意味で、ブリッジをチューン・オー・マティックに変えた”56モデル”???・・・にすればよかったと、今でも未練が残る。


ディッキー・ベッツ」も”57モデル”であり、こちらは、”57クラシックPU”がついていて、その意味では、私向きかもしれない。


・・・おっとっと、ついつい楽器のことになると、話が反れる。

ハモンドは、”スローバラード””まぼろし”なんかで使っていた。
Youtubeでは、「O~~Ya」という曲で、清志が弾いている。

途中から、私も、”テレキャスター・カスタム”を生徒さんから買い受けて使っているYouTubeがある。それは、「夜の散歩〜〜」という、沖縄の仕事の時の、清志と当時の彼女のことを歌ったバラードなのだが・・・。

やはり、彼の歌は、実に生活感がそのまま歌われている。
次は、そのあたりを、語って見たい。

むかしむかし・・・・ 003

ツアーの最初は、四国に香川:高松→高知だった。

 実に、飛行機大好きの私だが、生まれて初めて飛行機に乗っての仕事だった。


記憶というものは、案外変な時によみがえるもので、最初の大阪行きのジェット機に機内の様子は、覚えていた。


 羽田で隣の席は、陽水バンドの柴田君だった・・?・・・ように思う。陽水バンドの面々には、実にこの日が一番最初だった。

R.C.のドラムは、ウータン鈴木。
対して、陽水バンドのドラムは、あの和田ジョージさんだった。フラワー・トラベリング・バンドをはじめ、内田裕也さんの後ろで叩いていた勇姿を覚えていた。

ジョージさんには、これが最初で、後にロッキンFでバンド・クリニックのドラム担当の執筆を頼む事になるのだが・・・、何せ、陽水も本物は初めてだった。


大阪にジェット機で行き、そこからYS-11で高松まで飛んだ。
伊丹空港だった。関西国際空港なんぞ、まだ計画段階だったように思う。
何せ1978年のこと。

高松も今は、山の方に空港も引っ越したが、あの頃は、高松の街の方にあった。なんか、小さな小さな感じのした空港だった。

やはり、初めての事というのは、ある状況で閃き想い出すものである。高松のホテル・・??・・は”旅館”のような間取りで、”大部屋”だった記憶がある。


そして、高松〜高知は、電車・・・・??・・じゃなくディーゼルカー・・?・・だった。

ちょうど、9月にはいったばかりで、台風が来ていた記憶がある。
高松の会場は覚えてないのだが、高知は体育館・・・・・・だったような。
台風の雨がすごかった。



次は・・・?・・・新潟?だったかと・・・。
新潟空港まで飛んで、確か新潟を終えてそのまま列車で、どこかに移動した記憶がある。
なぜ覚えているかというと、当時、ソニーのカセット・デンスケという比較的大型のテープレコーダーを持ち歩いた事がある。

それで、新潟からの移動の車内で、流して聞いてたら、陽水に怒られた・・・ことがあった。

・・・確か・・・・金沢に移動した???・・・のかもしれない。
この時のドラムは、ジャズの畑の人で、津田俊司さんだった。この人は、私の知り合いで、デビッド・ガリバルディー張りのタイトなスタイルの人で、ソウルバンド仲間の先輩。

ストラッツよりも先輩バンドだった、エボニー・ウェストというバンドの人だった。

実は、尚美時代に国立音大の在校生で作っていたオーケストラに入れてもらった時依頼の付き合いの人。


金沢の時の会場は、よく覚えてる。
「実践倫理会館」という金沢の街の東側の丘の上にあった。
津田さんと会館の周りを散策した記憶がある。

ホテルは、寺町辺りのビジネス・ホテル。
ココで、確か、紹介した責任・・?・・ということで、津田さんと同室になった。


まッ、こんな感じで、清志のことは出て来ない事も多々ある。

金沢の時に気がついて来たのだが、本番前にリンコと清志は楽屋からいなくなるということ。
四国の時は、別の部分に気を奪われて、気がつかなかったが、15分位トイレに二人して入っていって出て来ない。

この辺りが、私の生活倫理に反してくるのだが・・・。

このツアーが全部終わった時に、陽水の事件があったのを、ご記憶の方もあるだろう。
あの時も大変だった。



そして、ツアーは沖縄、九州と続く。-続-

むかしむかし・・・・ 002。

そして、一週間後には、渋谷の渋谷橋のそばにあったスタジオでのリハが始まった。

もっとも、これは、1〜2週間後に始まるツアーのためのリハで、清志が決めたメニューでのリハだった。

当時出たばかりのシングル「わかってもらえるさ」から「スローバラード」「ダーリン・ミシン」・・・だったような記憶。
ドラムは、スタジオブッキングの方から来た”ウータン鈴木”だった。


渋谷からの帰り道すがら、当時私の部屋は、急いで借りた事もあって、風呂が無かった。
安い安い部屋だった。
当然、風呂は外なのだが、生活の時間帯の関係もあって、よく安いサウナに行く事が多かった。
当然、家で仕事をしている日は、近くの銭湯に行くのだが・・・。


大体リハは午後からで、7〜8時頃に終わる。渋谷辺りには意外とサウナが多かった。
それで、清志を誘ったりした。

”サウナ”で記憶に残っている出来事といえば、100℃のサウナルームで、清志と入っていると、彼が急に「腕立て伏せ」をはじめタコとがあった。「あんちゃん、死んじゃうよ!!」とびっくりして止めようとすると、ニヤ〜〜ッと笑って、「シンガーは、”腹筋”だよ!!」・・・て言って、20回ほどの腕立て伏せをやってしまった事だ。
何にしても、「大した奴だ」・・・と敬服した記憶がある。


そういえば、当時、”R.C.”をはじめて、他に国立在住のミュージシャンで組まれたオーケストラがあり、仲間に入れてもらっていて、録音会なんぞに望んだりした事があった。こちらは、練習場所が、今は無いのだが、八王子の”アローン”というジャズ喫茶だった。

そして、”ソウル・ストラッツ”。
こちらは、横田基地をベースに、厚木、座間、横浜などの米軍基地が主で、他に、新宿のディスコ、赤坂のムゲンがごく稀に。
横浜のBPという老舗のディスコなんぞも良くあった。

部屋に帰ると、”気の重い”採譜の仕事が待っている。必然的に、家に帰る足は重たく遠くなる。
リハの帰りのサウナが、かなりの気晴らしになっていた。

楽譜の納品は、四谷のリットー・ミュージック。
こちらも、納品帰りのサウナが癒しになっていたのだが、国分寺辺りのサウナが多かった。


そして、当時、”R.C.”は井上陽水の事務所、「なかよし」(奥田さん)にいた。
「ツアー」と言うのは、陽水のアルバム「ワシントン・ホテル」(?)のためのツアーで、R.C.はその前座だった。
・・・この、ミステリー・ツアーが始まる訳だ。

乞うご期待。

 -続-

むかしむかし・・・・。

国立の一ツ橋大学の寮の前で、清志と再会してから、リットーのテープの採譜の生活に、加えて、バンドのサポートの仕事が加わった。


二日後の午後、珍しく部屋のドアをノックする音がした。
窓から外を見ると、栗原と、その後ろに、小林がいた。
肩にギターを掛けて・・??・た。

そして、当時、まだ住み始めてばかりのアパートの部屋で、セッションが始まる。
リンコがもて来たカセットレコーダーに、”遊び”の内容が録音されていたのに、気にもならなかった。


そして、その2〜3日後に、栗原から電話。
”長い長い電話”だった。

いろいろあって、ギターを探していたとのこと。それで、この前に録ったテープを事務所で聞いた・・・という。
・・・で、良ければ手伝わないか??・・・・と言うことだった。

この時、ソウル・バンドをやっていた。
”ソウル・ストラッツ”といい、ベースは、今の「ヒロ小川」。
黒人4人+日本人3人だった。
結成当時は、もう一人、近藤くんというギタリストが入っていた。
所謂、JBsスタイルだった。



・・・まっ、それはまたの機会に話すとして、今は、R.C.サクセションのこと。

・・・・で、長い電話の後、1週間後には、渋谷の渋谷橋そばにあったスタジオにいた。
「O.K.」を出してからの、清志は早かった。
電話の後だったか、その次の日だったか、抱えきれないLP レコードを抱えて来た。
自分たちの最新アルバム”スローバラード入り”とシングル「分かってもらえるさ」「スローバラード」は当然、予想していた「オーティスレディング」のアルバムs。その時に、意外や意外、「ローリング・ストーンズ」のアルバムsも・・・。

これには、さすがに、首をかしげた。

しかし、このストーンズの資料が、私の音楽守備範囲と、生活倫理範囲をはるかに超えた部分だった事に、まだ考えが及ばなかった。-続-

先進技術の嵐の中での、基礎と応用

知り合いの人達の持ち物を拝見すると、まさに「先進技術」の嵐が起きている様子。


ただ・・・、乗り遅れている自分の「負け惜しみ」と取られても仕方の無い話なのだが、「”機材”に使わされてる」が強いのが心配。

私は、経済的理由もさりながら、"使い込む"のを信条にしている一人です。
我が家のPCは、Windows XP(ノートも卓上も・・・)とMac G4とパワーマック。
モバイルは、普通の折りたたみ携帯と、時折出動するシャープのザウルス。
それらを、自宅でリンクさせている。



”基礎”と”応用”の原則で生きているので(昔から・・・)一番大事にするのは、そこでやり取りされる”情報”それ自体・・・と思っている。


 古いシステムを積んだPCを"使い倒す"ことによって、新しいモノが現れた時に、原理の応用が出来るわけで、もっと古い話をすれば、Windows 以前のPC時代を経験してきた人には、絶対に叶わない。
 Macについても同様で、私はむしろMacの方が長くて、"システム6"モノクロの「クラシックⅡ」がベースになっている気がする。
 システムの中身が見えて、"Init"一つにしてもその違いが解るので、ソコに新しいMacが登場しても、何とかなる訳である・・・が、ここのとこのMacはどうもイケない。

 ・・・とはいっても、

バンド→専属コンダクターへ

バンドで動いていた頃は、気の知れた仲間が旅の友。


そして、ジョージさんの後半から所謂”サシ”が始まった。
バンドを連れて行けない仕事に、私だけがついていくという事が始まった。

行った先に、地元のバンドが待っていて、一緒に演奏する。

今度は、譜面の説明、リハ、カウント出し・・・とてんてこ舞い。そう考えると、バンドの頃は、楽だった。

最初に、譜面をマネージャーが配り、それにしたがって、曲を説明する。
まっ、説明の必要は無く、まずは、一回やってみる。
”ベタ”で・・・。


そして、そこに松方さんの専属、真木ひでとさんの専属の仕事が入って来た。

大変なのは、最初の5・6回で、後は、マイナーチェンジ。
しかし、常に気を配るのは、”カンバン”の体調。

「風邪気味」なんかの時は、気を使う。
そういう時は、ブレスがきつくなるので、スローな曲は若干テンポ速め。アップテンポの曲は、若干テンポ遅め・・・に設定。

必ず、自分専用のモニターSpを用意してもらう。
バンドの人は、歌手の人の歌が自分のところのモニターに入ってくるのを、大体嫌がる。

私はといえば、歌手の人の歌の具合にあわせて”棒を振るの”で、Spは”命綱”。

そんな中、ドラムの人は歌を返して欲しがる。ついでに、ギターの音も、替えさせてもらう。
ドラマーの人が、譜面に釘付けになった時、私のキザミやメロを聴きながら、ドラムの人は自分の譜面に集中できる。

etc.....見たいな注意事項は、かなりある。

ステージの日々

本の仕事・・・執筆をしながら、所謂、営業のバンドでの演奏が続いた。

近場は関東から、遠くは大阪まで、車の移動もあった。

ジョージさんのバックバンドでは、最初の2〜3回で曲やステージ構成が分かり、注意しなくてはいけないのはジョージさんのその日その日の”ノリ”。そして、気分。

譜面は、最後まで見ていた。
・・・というより、「曲順表」的なニュアンスが多かった。


それでも、途中で、どんどん新曲が入ってくる。
PAチェック”をかねて、新曲のリハーサル。それも、しっかりとしたアレンジがなされているので、譜面通りにやれれば「OK!」・・・というのが、営業の世界の定籍なのだが、ジョージさんの場合はそれでは終わらない事が多かった。

要するに、アレンジに対する「ダメだし」なわけで、”納得”いくまでやる。
PAチェック」に5〜10分。そのまま新曲チェックで1時間・・・なんて言う事はザラだった。


電車移動、飛行機移動でも、結局はタクシーに分乗してホテルやホールに乗り込む。

先入りしている”PAのオペレーター”は同じ顔馴染み。
1年もツアーをやっていると、お互い性格も知れたもの。


ホテルの前で車を降りると、たいがい、ロビーに「ディナー・ショー」のポスターがデカデカと置いて在る。

それを横目で見ながら、階とホール名をチェックする。
エレベーター、エスカレーターを降りると、大体、そのホテルで一番広いバンケット・ルームの入り口から、「チェック!・・・・チェック!」と聴きなれた人の声が聞こえる。

ホールの前のロビーを通り、重たい扉を開ける。
入ったと途端、「オハヨー」・・・とPAスピーカーから声がかかる。

そのまま、100位のテーブル、席の間をステージに向かい、階段を上がる。
セッティングされているアンプの前に行くと、譜面台が各人用にある。


マネージャーから譜面が回って来る。
ドラマーはセットの前に座ると、スネアのチューニングからはじめる。

私は、ギターをケースから出して、エフェクター・ケースを開き、譜面台の手前に広げる。

そして、チューニング。


だれからともなくセッションが始まる。誰かが弾き始めたフレーズに、誰からともなく絡んでいく。

少し”遊び”のジャムがあって、「おはようございます。」改めて、オペレーターの声が、モニタースピーカーから飛び出して来る。

「誰さん、声ちょうだい・・・」という指示に従って、各々前にセットしてあるマイクに喋る・怒鳴る・漫才る・・・・という感じでチェックは進む。

それぞれのマイクと、PA卓のチャンネルが判別できたところで、「全体でください!!」・・・と来る。

そして、バンドマスターから、「○×▲!!」・・・と曲名が告げられ、ドラマーがカウントを出し、曲が始まる。


・・・というような、雰囲気。
懐かしい・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。