いろいろ・・・やってきました。004

採譜・執筆の仕事が始まり、演奏活動はというと”ソウル・ストラッツ”のステージ、リハーサルなどのスケジュールはそのまま続いた。

そんな中、他にも演奏の機会に恵まれるチャンスは来た。

尚美の時の先輩に武田さんというBsの人がいた。不思議な事に、同じ国立の居を構えており、国立で会うこともしばしばとなった。そんな中で、あるバンドやっているが、付き合わないか??・・との誘いがあった。

そのバンドは、明星大学の学生がやっていた「ファンシー・ハウス」というバンド。
斉藤 恵くん(Gt.Voc.)橋本 洋子さん(Voc.Harp.)を中心にKey.Ds.Bs.という編成で、コレだけで十分なはずなのに、なぜかもう一本のGt.で私。

オリジナルのテープに何曲かの作品が入ったものが渡されてきた。雰囲気としては、「デラニー&ボニー」といったところ。
まっ、斉藤くんが歌いながらギターを弾き、完奏は同然彼が弾く。
私は、その合間を埋めて行く役どころ・・・となっていた。
それはそれなりに楽しかった。



一方の”執筆”の方も、大洋音楽出版→立東社へと紹介されて行った。”大洋”は、飯倉にビルがあったが、立東社はその頃まだまだ世間には知られない会社で、四谷の今の防衛省の前のビルにあった。

あの頃は、「バンドスコア・シリーズ」を発刊しており、海外の版権の取れた新譜をパート譜にするという作業が私の役どころ。「オールマン〜〜」では、ギター譜だけだったが、ここでは、「聞こえている音すべて」ということで、バンド全体をパート譜化するという難作業だった。

ドラムのパートから始まり、次にベース・・・・といった感じで進める作業で、私のデスクには常にスコア用紙が積まれていた。当時は、海外の新譜はマスターテープのコピーで日本に入ってくる。
レコード会社には、”38・2Tr.”で来るわけで、それを日本のプレス会社でレコード盤にして出荷・・・という順序になっていた。

その前の過程で、カセットにコピーされたものが立東社に来て、それが私に渡って来る。
したがって、メディアとしては”カセット”だった。
採譜の作業は、ヘッドフォンで聞かないと他の音と混ざって聞分けが大変であり、勿論ヘッドフォンであれば、昼だろうと夜中であろうと時を選ばず出来る。


しかし、それなりに神経の磨り減る作業ではあり、適当に休憩しないと持たない。
”音楽”を扱っているにもかかわらず、”音楽”的では決して無い作業でありました。



当時、「タブ譜」がすでに出回っていたが、立東社は独自の方法で、譜面に分数で「フレット/弦」という記譜を採用していた。まっ、コレはギターの譜面にだけ付ければよかった。ベースも同じように出来るにもかかわらず、こちらは”おたまじゃくし”のままでよかった。


この仕事が始まった頃、ストラッツのメンバーとの関係で国立に居を構えていた。
国立の街が近いのに、”府中市北山町”が住所だった。
採譜の作業に疲れると、のどかな国立の駅前辺りまで散歩した。いつも覗くのが、駅前の”ミスター・ドーナッツ”だったように思う。

国立の先輩方の中に吉田さんというTp.の方がいて、その方の奥さんがその店で働いていたので、皆、ついついその店に集まってしまう・・・・といった具合だった。
その店を覗くと、必ず他の国立在住のミュージシャンの誰かしらがコーヒーを飲みに来ていた。
そんな中で、新しいバンド活動の話が来たりした。

−続-