異常な子供

楽譜との付き合いは、幼い頃から始まっていたように思う。
”幼い頃”と言うと、一般的に”英才教育”と言うことを連想するが、そんなに金持ちの家庭に育ったわけではない。

楽譜とよりも、”音”そのものに対する病的なまでの関わり合い方。

母がよくいていたが、乳飲み子の頃、つまり、1歳未満の頃だったのだろうが、周りの誰もそれに気がつかないうちに、顔が青ざめてきて猛烈になき始めたらしい。
・・・・すると、遠くから「ヘリコプター」の音が聞こえてきたらしい。

「ヘリコプター」の音に対する恐怖心が人一倍強かったらしい。


幼稚園地代には、スタートの「ピストル」の音。
「よーい、ドン」とピストルが鳴ると、いきなり泣き出して、そのままコースを走り飛び出して、門から走り出し、家まで駆けて帰ってきてしまったらしい。

なんともなんとも・・・・。


小学校時代は、”雷”。
これも、夏の夜の”花火”と”雷”の違いを聞き分けていたらしい。
近所でも有名な、”おかしな子”だった。

遠くで雷が鳴り始めると、自宅の押入れの布団の中にはさまって震えていた・・・記憶がある。


小学校で、鼓笛隊で「スネア」。

市の学校対抗コンクールのハーモニカ・アンサンブルで、テノール・ハーモニカ。


中学に入ると、初日に、音楽室にいって、ブラスバンドに加入申し込み。
空いていた楽器のクラリネットを手にした。

そのまま、高校でもクラリネットを吹かせてもらった。


さて、話を最初に戻して、”楽譜”との付き合いだが・・・・、そんなわけで、”所見”が強いわけではない。
しかし、大方の音楽を楽譜で解析するという、変な癖がある。


「音楽」を楽しむというより、音を「楽譜」にして解析することが”楽しい”・・・のかもしれない。


”音楽”を”採譜”して、それを”解析”。
・・・私の、なんともなんとも、「変な趣味」である。

部屋に戻ると・・・・机の上には五線紙の山・・・・。

演奏の仕事を終わって、六本木の部屋に帰ると、部屋では期限の付いたカセット・テープが待っていた。

新譜の音源のオープンからのコピーのカセットをイヤホーンで聴きながら、”採譜”していく。

バンド全体の採譜が主だった。
まず、”ドラムのキック”から・・・。
次に、ドラムの他の楽器。
”曲のリピート”をきめるために、次にVocとコード楽器だった。

・・・細かい手順は、忘れた。
キーボードの入っている編成では、大体右手だけ・・・。
ピアノのイントロがある曲では、ピアノの両手から・・・。


まあ、神経の磨り減る作業ではある。
慣れてきた時期には、早く拾えるようになった。
膝にギターを乗せて、音を確認しながらの作業である。


六本木に住んでいるころは、まだ、キーボードが部屋に無かった。
その前は、府中だったが、やはり、ギター・・・だった。



演奏の無い日は、昼間、イヤホーンと首っ引きだった。
”レインボウ”や”ホワイト・スネーク”、”エアロ・スミス””バッド・カンパニー””ヴァン・ヘイレン””チープ・トリック”などは、「パート譜シリーズ」で新譜全曲だったりする。

当然、納期限はある。
演奏の仕事が多くなって、納期に遅れる事が多くなり、辞退させていただいた??・・・・ように・・・・思う?・・・。


しかし、この作業は、後のアレンジの仕事に大きなプラスになった事は、間違いない。


単価は決して高くは無かった。
むしろ、演奏の仕事の方が、わりは良かった。
・・といっても、皆さんが良くやっている”ライブ”ではない。いわゆる”営業”という世界。

「演歌」もあれば、「歌謡曲」もある。
有名な歌手の方の伴奏である。
ディナー・ショーが主流で、たまに会館での放送収録とかもあった。

リハーサルを一回やったら、後は本番。
「ライブ・バンド」の贅沢な練習量などありえない。

そして、終わったら、”それっきり”である。
そんな中、レギュラーのバックアップのシンガーもやらせてもらった。

ラテンのアイ・ジョージさん、R&Bのキング・トーンズ。
二回以上半レギュラーでやらせてもらった、ヒデロザのお二人。
中でも、ジョージさんとは、「地獄のツアー」の連続だった。



・・・などなど。
また書かせていただくつもり・・・。

出版の業界にいた頃・・・・

昨日は、面白い雲が多かった。



ここのところで、昔の作品を整理することになって、何やら思い出すことがあった。

初めは、オールマンブラザーズのGt解析だった。
デュアン・オールマンディッキー・ベッツのギター採譜だった。

そして、ドゥービー、バッドカンパニー、ヴァンヘイレンなどのパート譜が続いた。

そこから、ロッキンFが始まった。
毎月、最低限一曲の採譜。そして、何故か知名度ゼロの私が、サイドワークギターのインストラクターをやることに・・・。

いわゆるメイン・ギターは、最初がチャー氏だった。確か、竹中さんは、一回か二回で、すぐに竹田さんに変わった記憶がある。

ロッキンFではいろいろなバンドの採譜(全パート)と演奏アンサンブル解説だった。

出版社は楽曲についての出版権というものがある。
ビートルズシンコー・ミュージック・・・と言うように扱える版権の範囲内でつかう。
珍しいところでは、ロビント・ロワー(元・プロコルハルム)なども記憶にある。

かなり後だったが、ストーンズのミス・ユーも入ったりしたが、やはり”ハードロック”系の雑誌を志向した様で、私が携わらなくなってからは、ハードロック一辺倒になったようだ。

他にも。チープ・トリック、マイケル・シェンカー、エア・ロスミス・・・などなど。

MilesとEvans

高校を出て、それまで吹いていたクラリネットにあっさりと別れを告げ、中学時代から弾いていたギターも、いつか自分の表現方法としてそれを託すものになり、尚美に進学して、まず、このアルバムが世のジャズに登場していた。


学校のすぐそばに、”スタンピート”というジャズ喫茶があった。
あの頃は、音楽を聴く手段として、ジャズ喫茶か、レコード屋か・・・だった。
学生では、経済的にレコードを買いあさる財力はない。・・・そして、一杯のコーヒーで何枚のアルバムを聞けるかのジャズ喫茶が唯一の情報収集の場所だった。

いきなり、このアルバムが飛び込んできた。


・・・もしくは”これ”。
ウェスは、喫茶っでどこでもかかってた。

そして、自分がそれまで聞き込んできたブルースのニュアンスの強いギタリストを探して・・・、

小遣いをためて、↑ バレルを買った。


話が、逸れたが、ビッチェズブリューのつながりで、

このアルバムも、今となっては自分の志向と繋がっている部分を感じる。



さて・・・・・、ここまでは、マクラグリンが”いる”わけだが、バッキングとソロの意味では、

・・・・がイイ。
 コージーとルーカスの対比。
 当時、ギターをSynthにつないで、独特のサウンドを繰り広げていたコージーと、フィラデルフィアのSoulシーンで"刻み続けて"いきルーカスのコンビネーションは、毎日のように聴いていた「メンフィス・アンダーグラウンド」での”ソニー・シャーロック”と”レジー・ヤング”のそれと妙に重なった。

またまた、本来書こうとした内容から逸脱。

もっと主流のJazzに近いものをと、友人の部屋で聞かされたのが・・・・

そして、自分では、これを買った。


「ギター」を聞く意味で、Jim Hallの弾いている

これと・・・。


後段の三枚に共通する人として、Bill Evansという人が浮かび上がって来る。
今思うに、この人の持ち込んだ”世界”は明らかにそれまでのJazzとは違う。


近頃、Evansのピアノを聴き直してみて、その「和声世界」が革新的であることに気が付く。
ある情報によると、ジョージ・ラッセルからの影響が、エバンスにあったと聞く。



暑い!!
世迷言のように、自分の趣味を書きたくる・・・まるで魘されたように・・・。
まっ、こんな事も、作品を作る合間の、自己触発としては良いのではないかと・・・・・。

お粗末。

”一段落”ついて、ふと振り返る・・・。

続:

そんな”尚美”をやめるきっかけは、ピアノの授業だった。
今更、自分の怠惰な性格、人に感化されやすかった性格を弁護する気もないが、あの頃、無性にギターを弾きたかった。

いくつかの”バンド”を掛け持ちしながら、”曲”を書く事も始めた。当然、「理論」の勉強は独学で続いた。

最初、学んだ和声理論の習作のための”メロディー”のモノが中心だったが、「いくつかのバンド」の中に、ロックバンドがあった。そのバンドでは、歌を歌える人間がいなかったので、本人の趣味・・・から、私が歌う事になった。


当然、自分で曲も書く事もはじめる結果になる。


”尚美”を中退して遊んでいるわけにもいかず、アルバイトで測量の作業の手伝いをやった。
 休日は、バンドの練習。

”秋川”を源流まで測量する作業に一夏かかったが、技師の人と、腰まで水に浸かりながらの作業もあった。


結果、溜まった金で、http://www.ne.jp/asahi/cloudland/abe/FenderStrato69.htmを買った。



目標としては、335が欲しかった。
確かに、今振り返ると、自分には、セミアコの方が良かったと思う。

しかし、バンドの仲間から、言いくるめられて、予算的に手の届くストラトに”転向”してしまった。
「人生の歯車」の”掛け違い”というのは、原因は間違いなく”自分”であると思う。

周囲、環境に左右される部分はあるが、大概は、「自分の意思の弱さ」が引金になる。


強い意志を持って生きる人に、”悔い”はない。
人の顔色を見ながら生きていた私には、”悔い”ばかりが残る。

”尚美”で・・・

”水道橋”の学校には、町田(小田急線)→水道橋(総武線)で通い始めた。

週のカリキュラムは、和声学(芸大和声)、ピアノ、聴音、視唱、音楽史、音楽美学、合唱etc...とミッチリ詰まった内容。


特に、ピアノについては、レッスンが週一回だったが、苦手・・・だった。


バイエルから始まったのだが、中退するまで、ツェルニーで終わった。

ギターの日は、週に一回。
いろんな先生が、入れ替わり立ち代わりだった。中には、初見力こそが”食う手段”という先生もいた。
確かに、初見力は、手短に”経済”につながる力なのだが・・・。
 ・・・あまり、魅力は・・・感じなかった。


それで、週一日「A.N.Jazz School」に通う事にした。
当時、渡辺貞夫さんと菊池さんがバークレーで、ジャズの和声理論を学んで、それを、日本に持ち込んだ。
そのテキストを、中心に、各楽器のエキスパートが講師になっておられた。
 ギター科は 「鈴木“ポンちゃん”康允」が先生だった。
ただ、当時の私は、自分のスタイルを決めかねていて、Jazzと、並行してrockに聴き入っていた。それに、山木孝三郎さんというアレンジャー&ギタリストに傾倒しており、”アレンジ”の道も視野に入っていた。

 毎日、自宅で聞くのは、「スーパー・セッション」(アルクーパー)と「ラリー・コリエル」だった。


まっ、ギターについては、あとでまた書くとして、他の授業については、はっきり・・・好き嫌いがはっきりしていた。

和声学は、大好き。
聴音は、嫌いじゃない。
音楽史は、興味津々。
・・・あとは、同じ位。

もっぱら、学校の近くのジャズ喫茶に出入りして、次々とかかるレコードを聴きまくった。

ジャズロック”というカテゴリーが、出始めていた頃だった。マイルスが、”ビッチェズ・ブリュー”を出したばかりの頃だった。ただただ、珍しかった。それと入れ替わりに、どこでも人気があったのが、ウェスの”A Day in the Life”だった。他には、スタンリー・タレンタインとか、リーモーガンとか・・・。




それでも、一軒の店でリクエストされるアルバムは、限りがある。授業を午前中で切り上げ(当然、午後の授業は、サボ)新宿の歌舞伎町あたりをハシゴして、"Dig""Dag"とかいう大きなお店に3時間位・・・・。一杯のコーヒーで粘ると、水道橋のお店では絶対にかからないアルバムも多かった。

当時は、レコード(アナログ)しかなかった。カセットレコーダーはまだ、一般的ではなかった。



焦点の定まらないジャンル対象・・・は、演奏の場を求めて、多種に及んだ。
高校のブラスバンドの先輩に、電話すると、昭島でアマチュアのフルバンドで吹いているという。早速、尋ねて行き、弾かせてもらう事になる。

そこの人脈で、国立音大のフルバンドに入れてもらい、学園祭に出る事も出来た。


週に、一度、高校の同級生の家で、バンドをはじめた。当時は、”スタジオ”というものが、なかった時代。

尚美では、同級生と、コンボバンドをやらせてもらった。



・・・という状況だった。
特に、昭島のバンド(ABC Lab Band)には、第五空軍バンド経由で、本国の譜面の本物が入ってきてた。
カウント・ベイシー””ウディー・ハーマン”などの譜面が入ってきており、それをお借りして、自宅で、スコアを作って勉強したりしていた。

記憶-フェアモント・ホテル+清志

こちらに綴っておこうかと・・・。
想い出の端々。


まだ、リットー・ミュージックで原稿を書かせていただいてたころだった。”ロッキンF”の取材で、インタビューを続けていた頃である。


ライ・クーダー」が来ると聞いていた。かなり昔から、その存在、ギターシーンにおける特殊な存在感・・・を知っていたし、会ってみたいと思っていた。

 そこで、一人では心もとない・・・のもあって、清志を誘った。
 当時、”R.C.サクセション”と言っても、リットーの人たちは誰も知らなかった。彼らに紹介はしたのだが、なんか連れて来てまずかったかな???・・・という空気もあった。私なりに、紹介して動向をしてもらった。


 ”千鳥ヶ淵”に面したホテルの、ロビーの傍のレストランだった。少し待っていると、アロハシャツを着て「現れた」。
「素朴」???・・・という感じの爽やかな印象が強かった。

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ティールーム:「ブラッセリー・ドュ・ラ・ヴェルデュール」ホテルの1階

・・・・ユーミンの「経る時(ふるとき)「REINCARNATION 」1983.2.21のアルバム」の場所

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リットーの編集の人のインタビューが続いて、私もそれなりに・・・でも、パッとしない質問を続けたように思う。

それで、最後に清志に「何か聞いてみたいこと無い??」・・・と振ってみた。
元来、口のとても重い清志なのだが、その”重い口”から出てきた言葉に、編集の人も含め、もちろん私も・・・驚かされた。


ヒットパレードについて、どう思いますか?」・・・だった。確か、私は、「なんだコイツ!」と思って、苦笑しながらライの方を見たと記憶している。

 その時のライの表情も意外と”真面目”だったことも記憶にある。清志の顔をじっと見つめて、言葉を選びながら話初めたのも記憶にある。

 ただ、その内容は、紙面にのったかならなかったかは、覚えていない。もちろん、帰ってから、編集の人のメモも参考にしながら、原稿を書くのが私の仕事である。
 確か、私は、その件(クダリ)については書いた記憶がある。それを、編集の人がまたチェックして、結果は紙面・・・という段取りだった・・・と思う。


 「清志」の”焦り”・・・と捕らえていた自分がいたように思う。様々に辛酸をなめて尽くしていた男だからの切実な一言だったように思う。
 また、尋ねられたライも、”売れる”ということを命題化されているポップミュージックの世界、それもアメリカの社会の中で、戦っている人である。清志の言葉の裏側をすぐに察知したように思われた。


なんか、今頃だったように思う。こんな季節だったように思う。


「クリス・スペディング」「デイ・メイスン」「ジム・クリューガー」「ロイ・ブキャナン」「スタッフ」・・・今、すぐに思い出されるのはこの位だったか??・・・。