”尚美”で・・・

”水道橋”の学校には、町田(小田急線)→水道橋(総武線)で通い始めた。

週のカリキュラムは、和声学(芸大和声)、ピアノ、聴音、視唱、音楽史、音楽美学、合唱etc...とミッチリ詰まった内容。


特に、ピアノについては、レッスンが週一回だったが、苦手・・・だった。


バイエルから始まったのだが、中退するまで、ツェルニーで終わった。

ギターの日は、週に一回。
いろんな先生が、入れ替わり立ち代わりだった。中には、初見力こそが”食う手段”という先生もいた。
確かに、初見力は、手短に”経済”につながる力なのだが・・・。
 ・・・あまり、魅力は・・・感じなかった。


それで、週一日「A.N.Jazz School」に通う事にした。
当時、渡辺貞夫さんと菊池さんがバークレーで、ジャズの和声理論を学んで、それを、日本に持ち込んだ。
そのテキストを、中心に、各楽器のエキスパートが講師になっておられた。
 ギター科は 「鈴木“ポンちゃん”康允」が先生だった。
ただ、当時の私は、自分のスタイルを決めかねていて、Jazzと、並行してrockに聴き入っていた。それに、山木孝三郎さんというアレンジャー&ギタリストに傾倒しており、”アレンジ”の道も視野に入っていた。

 毎日、自宅で聞くのは、「スーパー・セッション」(アルクーパー)と「ラリー・コリエル」だった。


まっ、ギターについては、あとでまた書くとして、他の授業については、はっきり・・・好き嫌いがはっきりしていた。

和声学は、大好き。
聴音は、嫌いじゃない。
音楽史は、興味津々。
・・・あとは、同じ位。

もっぱら、学校の近くのジャズ喫茶に出入りして、次々とかかるレコードを聴きまくった。

ジャズロック”というカテゴリーが、出始めていた頃だった。マイルスが、”ビッチェズ・ブリュー”を出したばかりの頃だった。ただただ、珍しかった。それと入れ替わりに、どこでも人気があったのが、ウェスの”A Day in the Life”だった。他には、スタンリー・タレンタインとか、リーモーガンとか・・・。




それでも、一軒の店でリクエストされるアルバムは、限りがある。授業を午前中で切り上げ(当然、午後の授業は、サボ)新宿の歌舞伎町あたりをハシゴして、"Dig""Dag"とかいう大きなお店に3時間位・・・・。一杯のコーヒーで粘ると、水道橋のお店では絶対にかからないアルバムも多かった。

当時は、レコード(アナログ)しかなかった。カセットレコーダーはまだ、一般的ではなかった。



焦点の定まらないジャンル対象・・・は、演奏の場を求めて、多種に及んだ。
高校のブラスバンドの先輩に、電話すると、昭島でアマチュアのフルバンドで吹いているという。早速、尋ねて行き、弾かせてもらう事になる。

そこの人脈で、国立音大のフルバンドに入れてもらい、学園祭に出る事も出来た。


週に、一度、高校の同級生の家で、バンドをはじめた。当時は、”スタジオ”というものが、なかった時代。

尚美では、同級生と、コンボバンドをやらせてもらった。



・・・という状況だった。
特に、昭島のバンド(ABC Lab Band)には、第五空軍バンド経由で、本国の譜面の本物が入ってきてた。
カウント・ベイシー””ウディー・ハーマン”などの譜面が入ってきており、それをお借りして、自宅で、スコアを作って勉強したりしていた。