「包帯クラブ」を見ていたら、自分の中高時代を思い起こしてしまった・・・・

自分自身の、「性格的欠陥」を思い起こすことなく思い出せる”過去”というものもある。

まだまだ性格的にも精神的にも”ヤバかった”頃である。

 町田に「都立町田高校」があるにもかかわらず、なぜ日野高校を受けたか?
未だに疑問である。
中学2年の頃、成績は上位クラスではなかった・・・と記憶している。
 しかし、2年の時、生徒会の役員をやったことで、何かコンプレックスが吹き飛んで、やりたいことをやった気がする。
 
 ブラスバンドに入ったのは、一年の時で、「クラブを決める日」に小学校の時の仲間と音楽室に行ったのが一つの”意味”だったかも知れない。


 小学校の時に、”鼓笛隊”に選ばれて、スネア・ドラムをやっていた。同時に、市内の中学校音楽コンクールなんぞの時には、リコーダーやハーモニカで音楽の先生から引っ張られたりしていたことも、要素としてはあったかもしれない。

 
 「音」について、”異常な感性”を持った赤ん坊だったらしいことを、母親から聞いた事がある。幼稚園でも、合唱コンクールで確か、NHKに行った記憶がある。


 まっ、それはさておいて、中学校で高校を決める時に、「バリバリの進学校」は無理だと自分でも解っていた。
 当時、「学校群制度」の最初の年で、「立川・国立」と言った、「東大射程校」なんぞ、ハナから無理と解っていたので、その中間クラスで、「南多摩・富士森・日野」と言ったところに眼が行った。


 一度、気になるとトコトン行くのは、今でも変わらない悪い癖である。
その中でも、”古い歴史の無い”「日野」にフォーカスしたのは、やはり、ミーハーな理由で、”制服”だろう。

 日野だけが、「背広」だった。当時、”ガクラン”が標準の時代に、「グレーの背広」・・・・完全にハマった。
 それと、「出来て2年目」というのが魅力だった。中学でも、先輩が2年も上にいることで、嫌だった。別段、”イジメラレル”経験は無かったが、上に1学年だけ・・・ってのに、何か「自由」が感じられた。


 進路指導の時に、担任の先生は、「立川・国立」狙ったら??・・・と言われたが、その頃には、”グレーの背広”にハマっていた。聴く耳は持たなかった。

 「スベリ止め」に”桐蔭高校”・・・というのが、当時の都立受験生のお決まりだった。今のように、ものすごい進学校にはなっていなかった。柿生の山の上に、まだ、校舎もマバラに立ち、裏山を造成中の受験日だったことを覚えている。

 そして、兄から進められた、「日大一高」も受けた。
たしか、武蔵小杉だった。試験の合間に、窓から、裏のグランドを見たのを覚えている。野球の高校だった。こちらは、”野球好きの兄”に言われたから受けただけ。

 結果、日野も含めて、全部に合格した。
・・・別に、成績が良かった・・・と、今の自分に言い訳する気も無いのだが。
南多摩高校で、発表があり、「合格」を見届けると、その足で「日野高校」の新校舎を見に行った。
 結果、帰りが遅くなり、親をかなり心配させたらしいことを覚えている。

 高幡不動の駅で降りて、畑の中の道を歩いて、浅川の橋の所まで行ったのを覚えている。雲雀ののどかな鳴き声も、記憶にある。


 まぁ、そこまでは良かった・・・のだが。3年間で、浮いたり沈んだりで、ギリギリで卒業した悲惨な高校生活の”幕開け”はこんな風に、「余裕」で始まったのだが・・・・。請うご期待。