尚美時代・・・・

話を、もう少し前に戻してみたい。
日野高校を卒業して、当時、「尚美高等音楽学院」の尚美に進学した。

何のきっかけで、尚美にしたのか???
中学校から引き始めていた”ギター”。
平行して、ブラスバンドクラリネットを吹いていたせいもあって、「教則本」で”奏法を学ぶ”という方法が癖になっていた。

楽器をマスターする過程で、"師事"するということはしなかった。
家庭の事情やら、当時、ギターを囲む社会的な状況は決して「良い」イメージはなかった。
 "エレキギター"を持っているだけで「不良」というレッテルが貼られた時代である。
あのビートルズが来日した時に、私のクラスでも武道館に見に行って学校を休んだ過激な女子達がいたのだが、次の日に学級会で担任に立たされていた。

・・・そういう時代。今では、考えられない時代である。

中学の頃、私は”エレキサウンズ”にはまっていた。学校では、健全なイメージでもあるブラスバンドの、その中でも硬派イメージの強かったクラリネットだった。
 しかし、家に帰ると、買ってもらったステレオセットで、「フィーネーズの”哀愁のカレリア”」「S&Gの”アイアム・ア・ロック”」などを聞いていた。

 母親が買い与えてくれたクラシック・ギターでもっぱらメロディーをなぞり、小遣いを貯めて、楽器屋・本屋で楽譜集を買ってきては、コードを覚えて弾いていた。

夜になると、TVでは”勝ち抜きエレキ合戦”を見、ビートルズの武道館ライブも見、音楽番組も見、土曜の午後にフジテレビでやっていた「ビート・ポップス」?・・にかぶりつき・・・だった。
勉強中は、音楽番組を聞きながら・・・だった。

 話が、中学の頃の話になってしまったが、この傾向は「高校」に進んでも同じだった。高校になると、深夜の番組が楽しかった。
 たしか、木曜だったか、「ミッドナイト・ジャズレポート」と言うのがあった。
終わるのが3時あたりで、したがって次の日は寝不足だった。

 

・・・話を「教則本」に戻す必要がある。なぜなら、尚美を選ぶきっかけが、教則本の中の一冊にあったわけで・・・。

高校の頃になると、「ミッドナイト・・・」の影響で、趣向はJazzへと変わっていった。その前は、フォークだった。その前は、エレキサウンズ。特にベンチャーズの落ち着いたしっかりとした演奏・アレンジが好きだった。

そして、ギターそのものも、「やはり、”コード”でしょ〜〜〜ぉ!!」ということになっていた。その前の段階で、「ブルーノート・スケール」という素敵なスケールを理解してきていた。通販でかったギターの教則本に載っていた。

それを、そのまま弾いていたグループがTVで、トップテン・ヒットしていた。タイガーズの”シーシーシー”だった。かつみさんが中間のソロで弾きまくるスケールが、その通販の教則本で習ったとおりの”ブルーススケール”だった。

あれをきっかけにして、ソロやアドリブのある演奏に焦点が合っていった。
ブルーコメッツ三原綱木さん、スパイダーズの井上堯之さんが素敵なソロを弾き始めていた。そして、加山雄三さんの「ブラックサンドビーチ」。

日本のTVでもそういった「ロック」とか「ジャズ」のギターソロを見ることが出来るようになったわけで、私のギター熱は一気に加速した。


「コード」と「キザミ」に焦点を当てた教則本を買った。
その教則本の著者が、三原綱木さんの師匠に当たる樫本滋郎さんだった。

高校生である、”進学”を考えていたのだが、私の志望は「日大芸術学部放送学科」だった。そして、当時の過激化する「学生運動」の中、入学試験を中止する大学が出てくる中、「日芸」もそうなった。どうやら、学生運動の発火点だったと後で聞いた。浪人しても、次に受かる自信はなかった。

 そして、選んだのが、"音楽の道"だった。
なんと無謀なことを、一気にやってのけた。しかし、普通の音大を受けるには基礎的な準備が皆無だった。
 楽器は「ギター」。私の頭の中で、一計が浮かんだ。その晩、樫本先生に手紙を書いた。住所は、その"教則本"に書いてあった。
 親には、「勘当して!!」といい、自分で、かなり長文な手紙を書き、・・・多分、"想い"だけの爆発しそうな文面だったことは、推測に余りある。



・・・・また、続きは、後日にしよう。
なんか、懐かしくなってきて、あの頃の自分の精神構造に帰りつつある。・・・・危ない。