あの頃 02/「赤坂」のあたりで仕事をしていた頃・・・以降。

「赤坂」で二件の店を掛け持ちしていた頃、早い時間は韓国クラブ、遅い時間も韓国系のナイトクラブだった。
早い時間は、今、12チャンネルで歌謡番組の伴奏をしている、岡宏とクリアトーンオーケストラのバンマスである、岡さんが”クリアトーンズ”を作る瞬間だった。

そのお店では、”ハングル”の曲名のドッサリ乗っている曲集をやっていく。”ハングル”なわけで、それまでの曲名の解っている日本の曲は一切ない。岡さんがテナー・サックス、私がギター、他に大西君と言うベースと、高島くんというドラマーの4人だった。
カウントが出ると、そのまま弾いていく。これには、「参った」。
そして、韓国の民族音楽も覚えさせられた・・・が、覚えられなかった。
 6/8拍子ノリズムだった。最初のうち、訳わからなかった。

11時で早い店が終わると、少し離れたビルの?階のナイトクラブだった。こちらは、ジャズのスタンダードなんかが主だった。その店も、3時には終わる。少し店でぶらぶらしているうちに、始発の電車が出る。
「三つ揃い」のスーツ姿の”若いの”が、家に向かう。ちょっと時間が遅くなると、「出勤」の人達の流れを逆流する。
これが一番嫌だった。



 赤坂を”卒業”して、ディノのバンドに入る頃には、東高円寺との行き来が中心になった。
まだ、”ステージ・アレンジ”やったりしていた。
「ストラッツ」のリハは、ディノの友人の方の工場(作業場)だったり。メンバーに横田の軍属の黒人メンバーが入ると、横田基地内の建物や、稲毛の山奥の倉庫みたいなところでもやった。

石川君からかったフェンダーのスーパーリバーブを修理して、ドラムの板垣くんの車や、ヒロ小川くんの車に載せて移動させてもらっていた。
あのころ、”ストラト1本”と、ボスの”ジェット・フェイズ”、クライ・ベイビーというWahを使っていた。
ボスのコンパクト・シリーズなんて、まだ世に出てはいなかった。
ギターのヴォリュームを8位にしてバッキング、ソロの時には、10にする・・・と言った感じ。


始めた頃は、まだ町田の実家に住んでいた。
仕事が終わって、電車がなくなると、小川くんに遠回りをしてもらった。今でも、感謝感謝である。
しかし、新宿のブラックシープというディスコをやり始めて状況は変わる。当時、他に横浜のBPという老舗のディスコもやっていたが、このときは、板垣君が国立在住、小川君は今でも八王子である。
BPの時は、帰りは3時過ぎ。我が家の町田は、帰りの途中。

しかし新宿が、週に4日続いたりすると、小川君ははるかに遠回りをしてくれていた。これには、恐縮したが、結果、自分が国立に引っ越すことになった。
国立と言うのは、国立音大のあることもあって、ミュージシャンがたくさん住んでいた。昼下がり、街中でバンド仲間とバッタリなんていうのは、日常茶飯事である。
 駅前のミスタードーナッツには、必ず誰かコーヒーを飲みに来ている。

引っ越した当初は、まだ、楽譜の仕事はしていなかった。菅のメンバーに神代さんが入ってから、同じく彼の音大の同級だった江守さんという「太陽音楽出版」に勤めているサックス科出身の方がいて、神代さん経由で、”ギターの楽譜化”という仕事が来た。ギターの譜面を作るのは、自分の勉強のために良くやっていた。”尚美”に在籍したいた頃に、ラリー・コリエルの「ストリーツ・スタイル」とか、ケニー・バレルの「Shadow of your Smile」とかを楽譜にしていた。
ステージアレンジをしていた頃から、スコアをパート譜にするのに、「写譜ペン」はギターと同じ位重要なアイテムではあった。今でもその楽譜はあるが、「写譜ペン」で書いている。

最初の仕事は、「オールマン・ブラザーズ」のピックアップ集で、デュアン・オールマンディッキー・ベッツのギターだけの譜面だった。タブ譜は使っておらず、「分数表示で弦とフレット」を楽譜の上に書き込むと言う方法を指定された。

 神谷町にあった”太陽”の事務所には、ロック評論家の吉成さんなんかもデスクを置いていて、お会いしたりした。
それが本になった頃に、「立東社」という今のリットー・ミュージックの前身となる会社に紹介された。
こちらは、四谷。「ロッキン・エフ」が創刊されるず〜〜っと前である。

 「バンド・マスター・シリーズ」という楽譜集の採譜であった。こちらは、ギターだけでなく、なっている楽器全部である。主に「Voc,Gt,Key,Bs,Ds」だった。確か最初は、”バッド・カンパニー””ディープ・パープル”などなどであった。