あの頃 01/#001 20代の最初の頃

”尚美”を中退したころ、「各駅停車」というバンドを組んでいた。
リハで良く使ったのは、「和光大学」である。
・・・と言うのは、キーボードの奥川が、”尚美”に二股かけて来ていたので、和光大学の教室や、テニスコートのあたりに楽器を出して、練習したりしていた。



 そして、尚美を退学。
理由は、定かでないが、「ピアノ」の単位が足りなかった。
ツェルニーに入った頃から、追いつかなくなってきた・・・・と、思った。
そして、ピアノの先生が好きになれなかった。


 中退してまもなくは、「測量」会社でアルバイトしたりしていたが、キャバレーなどの”トラ”が友人から入ってきはじめて、方々を転々とした。


 バンドのリハも含めて、練習場の確保と言うことで、横田基地の周辺にある「外人ハウス」を借りて合宿生活に入った。
その頃は、1時演奏での仕事はやめて、家具の発送倉庫のアルバイトをしたこともあった。
・・・そして、バンドをクビになった私は、実家に戻り、また、キャバレーやナイトクラブを転々とした。
実家にいたので、家賃は要らなかった。

 たしか、武蔵小金井のキャバレーから赤坂の韓国クラブに移ってから、様々な人間との出会いがあり、仕事も変わって来た。コーラスグループの人と知り合い、彼らのステージ用の譜面をアレンジしたりしていた。
この韓国クラブに、石川幹男君という、ギタリストがベースのトラで来て、彼との交流から、当時彼が参加していた「鳥塚茂樹&ホットケーキ」のリハーサルや、葉山でのホテルでの合宿を見に行ったりし始めた。


 このバンドで、キーボードを弾いていた金森隆くんとは、これが縁でその後長い付き合いが始まる。
ナイトクラブを辞めて、ソウルバンド(”韓国”バンドではなく、黒人音楽=ソウルミュージックの方の”ソウル”)なのだが、確か”キャロン”という人がヴォーカルだったが、これは仕事が取れるまで続かなかった。
そのバンドでベースだった松永君の紹介で、”ディノ・グラント”と知り合い「ソウル・ストラッツ・アンリミテッド」という最後には10人(黒人5人+日本人5人)という大所帯のバンドに。
 黒人メンバーのホームグランドである横田基地の”NCOクラブ”や、厚木、座間、横浜、立川の基地や、赤坂ムゲン、横浜BPといったディスコ・クラブなどなどを転々として演奏をしていくのである。


 この時のベースが、ヒロ小川君である。
そして、”キザミ”にアキが来て、もっとギターが弾きたいと思っていた頃、石川幹男君から連絡が入り、鳥塚さんの事務所で、カントリーシンガーのバックバンドを探していると言う。
”キザミ”から一転して、Voc.+Gt.+Bs+Dsという編成で、リードギターを弾く羽目になった。
勿論、カントリーのギターについては、経験は無かったが、個人的にはロギンズ&メッシーナのジム・メッシーナなどを聞き込んでいたので、それなりにやっていった。
”マーティー・ロビンス””ペリー・コモ””ハンク・ウィリアムズ””バック・オウエンズ”””などなど、大道のカントリー・シンガーの名曲ばかりを”総ナメ”と言う感じだった。
なぜか、”CCR”はリクエストに上がった。そして"CSN&Y"などなど。


 資料をもらうと、小型のメモ五線紙帖に採譜して持って歩いた。
これには、みんな不思議な顔をしていた。彼らは、覚えてしまうらしい。・・・が私は、覚える自信が無かったので、書き記した。

 歌は、エディ村田氏。
日本人で始めて、ナッシュビルのグランド・オープリーのステージに立った人である。
エディさんは、マーティンのOシリーズの小ぶりなアコースティックギターを弾きながら歌う。私は、ストラトキャスターで、スティールギターのような真似事を、ヴォリュームを使ってやっていたりした。
ステージのたびに、ホットケーキのメンバーが見に来たりしていた。

 金森くんや、ベースの川名くん、ドラムの司くんなどなど。
さすがに鳥さんは来なかった。

 そして、1年やったかやらないかで、「ドーナッツ・ショップ」というこのバンドを辞めて、結果、ストラッツに戻った。その頃には、国立に引っ越して・・・・。こうして「ロッキンF」が始まる。

 

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 記憶と言うのは、いい加減である。
「嫌な頃の事は、忘れる」と言う事を聞いたことがあるが、私の場合は定かではない。


断片的に思い出す。朝起きた時にいきなり、30代の頃の記憶が蘇ったりする。困ったものである。