いろいろ・・・やってきました。001

高校の同窓会があった。
立川のパレスホテルだった。

そして自分の「歩んできた道」への再確認が、”新たな反省”と、”新たな自信”を生んだ出来事だった。


思い起こすにいろいろやってきた。
最初は、ギターで尚美の門を叩く。

この時点で、中学・高校とやってきた楽譜と楽器論(ごく初歩的・・・)の知識があった。
高校を出た時点で、楽譜に対するある程度の慣れは・・・あった。



”尚美”のカリキュラムが始まって、はたしてどんな内容があるのか・・・?・・・、興味深々だった。
かなりの「期待」とそれを上回る「不安」。



授業が始まると、一週間で見えはじめた。
まず、「和声学」・・・・・コレは、ハマッタ。

そして、「音楽史」・・・これまた、新しい世界の登場。古い音楽の淵源に触れるという、またも無い機会だった。
「音楽美学」・・・・同様に。

「聴音」・・・・コレは、チャレンジだった。
それまで、家で聴いてたレコードやテープを譜面にするということは、少しづつやっていた。

「視唱」・・・・最後まで、不得意・・・・だったが、所謂、初見の譜面で歌うのである。
自分ではイケて入ると思ったのだが、一年・・・振り返って成績は良くなかった。

「対位法」・・・これまた、窮屈な印象。
あの頃、曲を書きたい、アレンジしたい・・・・、という想いが出始めていた頃だった。



管弦楽法」・・・・一番の注目学科でした。当然、成績もクラスの群を抜く内容でした。
教授の後を追い回して、迷惑をかけた思い出ばかり・・・。

「ピアノ」・・・まるで、ダメ。

「ギター」・・・・はといえば、尚美に入ったのだが、期待は裏切られた。
それを穴埋めする意味で、当時尚美の在校生の間でささやかれていた「A.N.JazzSchool」の存在。
早速、門をたたく。
当時のJazzの最新概念・・・、特に、「ハーモニー論」が私の興味をくすぐった。
こちらの師匠は、知る人ぞ知る達人だった。



しかし、「A.N.」に通う頃には、はっきりと自分の目指すものが見え初めていて、Jazz Gtの技術的な側面にはあまり興味がわかなかった。



”ギター”については、クラプトンのそれであり、コリエルのそれだった。


そして、自分でアレンジ用のスコア用紙を持ち始めるのに、時間はかからなかった。
二年先輩に、竹内さんという作曲科の方がいた。
この人が、”憧れ”になった。

”学園祭”で、竹内さんが作ったオーケストラが彼のオリジナルを演奏した。
そこで、ピアノを弾く彼の勇姿に、自分の将来を重ねていた気もする。




ちょうどその頃、高校のブラスバンドの先輩に電話をする事があった。
昭島のアマチュアのオーケストラがあり、そこでサックスを吹いている・・・という。
「コレだ!!」と思い、練習をたずねた。
次の練習から、そのバンドでギターを弾いていた。



それと、そこで知り合った国立音大在学中のTpの人について、国立OBでフルバンドをやるから来てみろといわれ、たずねて行き、こちらも、次の練習からギターで参加した。



そして、自分の”アレンジ業”に拍車がかかったのは言うまでも無い。
昭島のバンドでアレンジをやらせてもらい、そのために書いたスコアを、先輩の竹内さんに見てもらった。

あくまでも、「やる気」だけ。
お粗末な内容のスコアに対して、竹内さんはそれでも目一杯激励を込めて、指摘・指南をしてくださった。

昭島のこのバンドは、現在でも「ABC.Lab.Band」として活動をしている。
このバンドの創始者は関雄策氏で、今でも、バンドの指導に携わっている。



ちなみに、この頃の私のアレンジのバイブルは、渡辺貞夫さんの「Jazz Study」とデルボの「Jazz Scool」。楽器論については、尚美の管弦楽法の本と、別に”音楽の友”のより厚い管弦楽法だった。

その他、様々なジャンルの本を無い金貯めて、買い捲った。
「音楽工学」何種類もの「和声学」・・・等々。



楽器は”ギター”のままで、当時のアイドルは、山木幸三郎さん、杉本喜代志さん。海外では、ラリー・コリエル、エリック・クラプトン、フレディー・グリーンなどなどだった。
杉本さんとは、縁あって、今でも会ってお話を伺う事、一緒に演奏もさせてもらう機会もあった。

  • 続-